音楽

ベートーヴェン公開レッスン in 岡山ルネスホール

‪昨日のベートーヴェンピアノソナタの演奏会の一環で、今日は公開レッスンでした。それもベートーヴェンのソナタ限定の。小学生2人がどちらも20番のソナタ、中学生が昨日も弾いた7番のソナタ。
20番のソナタは全音のソナチネアルバムに入っているし、ソナチネの延長線上でトテトテと弾く子供が‬多いけれど、本当はそんな曲じゃないと思う。テンポももっとはつらつと速いべきだと思うし。2分の2でAllegro ma non troppoなんだから。
とは言ってもソナチネを卒業してこのソナタに入って、いきなりベートーヴェンの真髄を知っているような演奏をしろと言ってもそれは無理だと思うので、今日は具体的な弾き方よりも主に音楽の大きな話をしました。
このくらいの曲からは教える側にも広い知識と音楽性が必要になってくると思う。もっと言うと、ブルグミュラーを教えるのにも本当は同じ時代の、そしてそれまでの時代のたくさんの音楽を知った上でその知識やイマジネーションを落とし込んで教えることが必要だと思う。
シンフォニーやオペラを知って生まれるイマジネーションは、山ほどブルグミュラーの講座に行っても得られない。具体的な教え方を知ることはもちろん必要だけれど、そこに音楽があるのか、それとも方法論だけ存在するのかで、同じことを教え込まれても10年後20年後には全く違うものに変化していく。
僕は小さい子を教えるのが決して上手なわけではないし、小さいうちはやはり毎週毎週そばについて同じことを粘り強く教えてくれる先生が絶対に必要だと思うけれど、その後ろにある大きなイマジネーションや憧れのようなものを築くきっかけになってくれればいいな。
それにしても今日は聴講の方がとても多かった。公開レッスンをしてもなかなか聞きに来る方は少ないので、これはいい傾向だと思う。
岡山の音楽レベルがどんどん上がってくれるといいな。

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プログラム

‪今さらですが、明日の倉敷国際ホテルでのディナーコンサートのプログラムが決まりました。

バッハ=ヘス:主よ、人と望みの喜びよ
シューマン :トロイメライ
ドビュッシー:月の光
プーランク:エディトピアフに捧げる即興曲
シベリウス:樅の木
吉松隆:プレイアデス舞曲集より
さりげない前奏曲
西に向かう舞曲
聖歌の聞こえる間奏曲
坂本龍一:戦場のメリークリスマス


ショパン:幻想即興曲
モーツァルト:トルコ行進曲
ショパン:子犬のワルツ
ブラームス:間奏曲イ長調Op.118-2
ベートーヴェン:ピアノソナタ第14番嬰ハ短調Op.27-2「月光」




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カンマームジークアカデミー in 呉、申し込み期間終了

カンマームジークアカデミー in 呉、募集期間が先日終わりました。第一回目からどんどん人が増えていて、今回も蓋を開けてみるとすごい人数!前回も既にパンパンで朝から晩まで働きづめでしたが、今回はさらに多くなりそうで、どうなるんだろうか。これより人が増えると先生を増やすしかないわけですが、今度は部屋が足りなくなるので、そう考えるとこのアカデミーは規模としてはこのくらいが限度なんだろうな。もしくは噂で聞く秋吉台のように深夜までレッスンをするか(笑)
それにしても、広島近辺の人や広島出身の人、遠くても大阪の人がほとんどだった第一回と比べて、ずいぶん広がったものだ。広島とは特に関係のない芸大・桐朋・東京音大の人たちもたくさん受けに来てくれます。芸大で室内楽科を教えた3年間はとても楽しかったけれど、その時のような雰囲気になりつつあるかなー。いや、大学はやはり単位のためだけに来ていたやる気のない組もいたから(笑)、もしかしたらもっと充実してるかもしれない。やる気がないのにわざわざお金を払って呉まで受けに来ないですからね。
がぜん、楽しみになって来ましたね^ - ^



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運命と私




ベートーヴェン4番のコンチェルトの2楽章。若い頃は、なぜオケが強く始まるのにピアノはそれを無視するかのように弱々しく演奏しなければならないのか納得がいかなかった。オケをうまく引き継ぐためには、フォルテとは言わないまでもある程度の勢いと充実感のある音色で弾くべきではないのかと思い、実際にそのように弾いていた。でも、これはきっと「運命」と「自己」というようなことなんだろうなぁ。ピアニストはただ佇んでいればいい。そしてだんだん周りの音が遠ざかっていき、その内面にスポットライトが当てられていく。歳を重ねるとだんだんいろんなことが見えてきて、本当に楽しいと思う。

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日本の音楽界の将来から◯◯亭まで

先日の浜松に引き続き、カワイのシンポジウム関西大会でまたペダル講座をしてきました。



最近日本の音楽界(教育界)をいい方向に向けていかなければ、という危機感を感じているので、ペダル講座というタイトルではあったんですが、いい音楽をたくさん聞いて自分でイメージが出来るようになることの必要性、コンクール動画ばかり見ることの危険性など、かなり脱線した話もたくさんしましたが、伝わったかな。
帰りはせっかく珍しく新神戸駅から乗るので、これ。
「新神戸駅においしい豚まん屋さんあるんですよ。」
「蓬莱ですか?」
「じゃなくてねぇ、えっと、何とか亭っていうんですけど。」
という会話をカワイの方としたんだけど、一文字もあってなかった。


三宮一貫楼です。

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公開レッスンのお知らせ

そういえばお知らせするのをすっかり忘れていました。11月5日、6日で倉敷の音楽アカデミーで公開レッスンします。まだ申込めるようですよ。


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良い演奏とは?

24日の宇都宮でのリサイタルで久しぶりに弾くので、ショパンのマズルカOp.33-2をナクソスで片っ端から鑑賞。リストの中には自分の名前も出て来るけれど、自分の演奏聴いても勉強にはならないし、何年の前の演奏に反省しても仕方がないので、基本自分のCDは聞き返しません。
マズルカのリズムが得意そうなポーランド系のピアニストを何人か聞いた後で、きっと固いんだろうなとあまり期待はせずに、それでもやはり外せないとポリーニを聞いてみる。始まった瞬間、「格が違う!」。他のピアニストのよりも「マズルカ」としてどうなのかは分からない。ポリーニの癖だろうけれど、フレーズの途中で突然音が短くなって不自然な歌になったりする。それでいいのか?と思うような機械的な切り方もあったりする。でも格が違う。思えば、ホロヴィッツが自分にとって神様だった(いや、今もだな)芸大時代は、ポリーニは大嫌いなピアニストだった。友人とCDを聞きながら、「なぜこんなメロディを歌わずに弾けるのか」などと憤慨していかにポリーニが良くないかを語っていたものだ。しかし、なぜかCDは何枚もあった。そしてその後も、ことあるごとにポリーニを聞いていた自分に気づいた。
同じようなピアニストに、リヒテル、グールドなどがいる。何がいいのか全然分からない、と思いながら気がつけば何度も聞いている。
その逆もある。とてもいいと思うけど、特に聞き返したいとは思わない。
何が違うんだろうか。何が違うかと考えると、きっと魅力が違う。音の求心力が違う。完成度が違う。結局のところ音楽家としての格が違うとしか言いようがない。正しい音楽語法、正しいスタイル、正しいテクニック、そんなものはいとも簡単に吹き飛ばしてしまうほどの格の違い。もちろん本人たちはそこから逸脱した音楽をやろうとしているわけではなくて、それが心の底から湧き出たものだからそうしているだけ。
クラシック音楽のように長年かけて積み重ねられてきたジャンルの場合、良い演奏と言うのはどういうものなのか、と言うのはかなりのところまで分析ができるのだと思う。しかし最後の最後に出てくるその部分は分析するのがとても難しくて、哲学にも近いような領域になってくるのだと思う。そしてそのほんの少しの違いは、音楽家としては天と地ほどの違いになってしまう。
自分も演奏家の端くれとして、常に自分自身に戒めを持って追求し続けなければいけない。テクニックの事や構造、フレージング、和声などを考えるのは当然のことであって、むしろスタートラインと言ってもいいかもしれない。そういうことがたくさん分かっていたらいい音楽が出来るわけではないし、いろんな知識があって最終的に演奏はいまいちなほどカッコ悪いことはない。(それに自分で気づけなければさらに惨めな感じになるが…)。
演奏会もだけれど、演奏家として講座をするというのは意外とハードルが高い。いろいろな説明をして、そしてやはり演奏家なのでポロっと弾いてみる。その演奏に魅力がなければ、例えその前に説明したことはキチンとしていても全てなかったのと同じことになってしまう。じゃあ弾けなければいいのか、というとそれなら研究者の方がしゃべったほうがはるかに知識も豊富だし読み込みも深い。結局のところ演奏家は心に届く音を出すしか道はないのだ。
さーて、また自分でハードル上げちゃったぞ(笑)。秋はまだまだ本番続きなので、頑張らないと。とりあえず仕上がった、なんて演奏には絶対にしてはならないけど、とりあえず仕上げないと何も始まらない(笑)。

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演奏家の魅力について

24日の宇都宮でのリサイタルで久しぶりに弾くので、ショパンのマズルカOp.33-2をナクソスで片っ端から鑑賞。リストの中には自分の名前も出て来るけれど、自分の演奏聴いても勉強にはならないし、何年の前の演奏に反省しても仕方がないので、基本自分のCDは聞き返しません。
マズルカのリズムが得意そうなポーランド系のピアニストを何人か聞いた後で、きっと固いんだろうなとあまり期待はせずに、それでもやはり外せないとポリーニを聞いてみる。始まった瞬間、「格が違う!」。他のピアニストのよりも「マズルカ」としてどうなのかは分からない。ポリーニの癖だろうけれど、フレーズの途中で突然音が短くなって不自然な歌になったりする。それでいいのか?と思うような機械的な切り方もあったりする。でも格が違う。思えば、ホロヴィッツが自分にとって神様だった(いや、今もだな)芸大時代は、ポリーニは大嫌いなピアニストだった。友人とCDを聞きながら、「なぜこんなメロディを歌わずに弾けるのか」などと憤慨していかにポリーニが良くないかを語っていたものだ。しかし、なぜかCDは何枚もあった。そしてその後も、ことあるごとにポリーニを聞いていた自分に気づいた。
同じようなピアニストに、リヒテル、グールドなどがいる。何がいいのか全然分からない、と思いながら気がつけば何度も聞いている。
その逆もある。とてもいいと思うけど、特に聞き返したいとは思わない。
何が違うんだろうか。何が違うかと考えると、きっと魅力が違う。音の求心力が違う。完成度が違う。結局のところ音楽家としての格が違うとしか言いようがない。正しい音楽語法、正しいスタイル、正しいテクニック、そんなものはいとも簡単に吹き飛ばしてしまうほどの格の違い。もちろん本人たちはそこから逸脱した音楽をやろうとしているわけではなくて、それが心の底から湧き出たものだからそうしているだけ。
クラシック音楽のように長年かけて積み重ねられてきたジャンルの場合、良い演奏と言うのはどういうものなのか、と言うのはかなりのところまで分析ができるのだと思う。しかし最後の最後に出てくるその部分は分析するのがとても難しくて、哲学にも近いような領域になってくるのだと思う。そしてそのほんの少しの違いは、音楽家としては天と地ほどの違いになってしまう。
自分も演奏家の端くれとして、常に自分自身に戒めを持って追求し続けなければいけない。テクニックの事や構造、フレージング、和声などを考えるのは当然のことであって、むしろスタートラインと言ってもいいかもしれない。そういうことがたくさん分かっていたらいい音楽が出来るわけではないし、いろんな知識があって最終的に演奏はいまいちなほどカッコ悪いことはない。(それに自分で気づけなければさらに惨めな感じになるが…)。
演奏会もだけれど、演奏家として講座をするというのは意外とハードルが高い。いろいろな説明をして、そしてやはり演奏家なのでポロっと弾いてみる。その演奏に魅力がなければ、例えその前に説明したことはキチンとしていても全てなかったのと同じことになってしまう。じゃあ弾けなければいいのか、というとそれなら研究者の方がしゃべったほうがはるかに知識も豊富だし読み込みも深い。結局のところ演奏家は心に届く音を出すしか道はないのだ。
さーて、また自分でハードル上げちゃったぞ(笑)。秋はまだまだ本番続きなので、頑張らないと。とりあえず仕上がった、なんて演奏には絶対にしてはならないけど、とりあえず仕上げないと何も始まらない(笑)。

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ACT音楽セミナー

4日間にわたるACT音楽セミナーが終わりました。
















音楽家を目指す学生や実際に演奏活動をしている人向けの呉のカンマームジークアカデミーとは違って、こちらもアマチュアの方も参加してみんなで楽しく音楽をしましょうというコンセプトで、前回前々回までは確かに僕ら講師も楽しんで演奏して、呉ほどしんどくなかったような気がしていたのですが、今回は気が遠くなりそうでした。それもそのはず、朝は6時半には起きて8時半か9時くらいまでに会場に行き、都内3つの会場を移動しながら夜8時くらいまで弾き続けて、家に帰ったら11時を過ぎているという生活でしたから。でも、僕らも参加3回目にしてずいぶんこの会の皆さんとの関係も濃くなってきたような気がして嬉しいです。そうすると基本がっつりやらないと気が済まない松本上里夫妻は、とことんまで言ってしまうわけで、そりゃあエネルギーも使いますね。でも、良くなるというのが分かっているのにそれを言わずに通り過ぎるというのはどうにも出来ない。もちろんこれからプロ奏者になるわけではない趣味の方には、逆立ちしても出来ないようなことはいいません。ただ、楽しむだけと言ってもこのセミナーに参加するほどの意識を持っている方々であれば、せっかくならもう一つ二つ上のレベルに上がれたほうがより豊かな音楽生活が送れるのは間違いないです。テクニック的なことだけではなく、音楽との向き合い方や精神状態のコントロールの仕方などの含めて。もちろんこれからプロの音楽家を目指す学生向けには、逆立ちしても出来ないようなことでも容赦なく要求します。でないと将来食っていけないわけだから。
そんな3日間のレッスンを経ての最終日の10時間にも及ぶ修了演奏会は、やっぱり感慨深いものがありましたね。最後のシューマン五重奏を弾いた時のあの高揚感。普通に演奏会のステージで弾くとはまた違う感覚が生まれたかもしれません。
さて、休んでる暇はないぞー。次の曲たちの練習をしないと!!

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羊と鋼の森

「羊と鋼の森」を読んだ。2016本屋大賞に選ばれて話題になった本だ。大変感銘を受けた。
音が聞こえてくるような、風景が見えてくるような、そんな作品だった。それにしても調律のことや音楽のことを本当によく知っていないと書けない世界のような気がするけど、どうやってここまでこの世界のことを咀嚼したんだろう。
それにしても主人公のキャラ設定とだんだん変わっていく様が、日本の音楽学生にもそのままあてはまりそうな感じで興味深かった。
その中に「正しいという言葉には気をつけたほうがいい」という1節があった。
コンクールを受ける人たちを見ていると、「正しい演奏」は何なのかを皆探しているように思える。
正しいカルボナーラ、というのがないのと同じ位正しい演奏というのは存在しないと思う。そして、おいしいスパゲティカルボナーラがたくさんあるのと同じように、良い演奏というのはたくさんあると思う。しかし、たくさんある「良い」の中にも「抜群に良い」ものがあるのは確か。それは絶対的なものではなくて、あくまでも相対的なもの。しかし、多くの人が「抜群に良い」と思えばやはりそれは抜群に良い演奏となる。
正しい演奏を探しているのは多分子供たちではなくて、親御さんと一部の先生たち。バッハの正しい奏法は?、ショパンの正しい歌い方は?その結果生まれたものは正しい演奏ですらなくて、その特定のコンクールで高い得点を取るための演奏に過ぎないと言うことにも気づかずに。当然のことながら、その結果もし1位が取れたとしてもそれは「正しい演奏」の結果でもなくましてや「良い演奏」ができたと言う事でもないので、コンクールで優勝はしたけれどその後は何も演奏活動ができない、と言う結果になる。これがコンクールの罠である。
コンクールもビジネスなので、そこで良い結果を取ることで将来は約束されると言うイメージを打ち出してくる。そのコンクールが音楽界の全てのようにすら思えてくる。しかし冷静に考えてデータを取れば分かるけれど、よっぽど世界的に有名なコンクールでない限りそんなことはありえない。そもそもコンクールはオリンピックではないのだ。オリンピックには世界最高のアスリートが集うが、コンクールに世界最高の演奏家は集まらない。世界最高の演奏家はショパンコンクールの会場にいるのではなく、カーネギーホールに、ムジークフェラインに、ベルリンフィルハーモニーに、もしかしたらサントリーホールに、いる。
昔から「CDを全然聞かないピアノの生徒」というのはたくさんいただろう。いい音楽をたくさん聞くことなくいい演奏なんて出来ないはずなのに。しかしその他に最近よくあるパターンが、「この曲はだれのCD聞いた?」「あ、CDとかじゃないですけどコンクールの動画を見ました」というもの。この問答を聞いて違和感を感じない人は申し訳ないけれど音楽について考え直したほうがいいと思う。だって自分の受ける級の過去の一番上手だった人の演奏じゃない。と思うかもしれない。でもその動画で弾いている彼ら彼女らは演奏家ではないのだ。もちろん参考にしたりレベルを知ったりするのは悪いことではないし、実際に僕自身も感銘を受けたような演奏もいくつもある。しかし、そういうものをお手本にするのは、他の素晴らしい演奏をたくさん知った上でだ。
先日「ピアニストの脳を科学する」の著者古屋晋一さんとお話して衝撃を受けたのだが、最近国際コンクールでの日本人の入賞者が少なくなっているのだという。僕はてっきり、最近の若い子たちはよく弾くしどんどん日本のレベルは高くなっているのだろうと思っていたのだけれど、どうやらそうではないらしい。これもそんな音楽界の実情が影響してるのではないだろうか。その結果小学生や中学生のレベルは何十年か前とは比較にならないほど高くなったけれど、目指すところがそこになってしまってそのあと本当に世界に通用する音楽を持ち続けられる人が少なくなっている、もしくは早い段階で生き残れなくなっているということがあるのだろうか。
そのへんの分析をするのは僕の役目ではないと思うけれど、少なくとも音楽の素晴らしさを伝えて、定期テストで100点を取るような感覚ではなくて本当にいい音楽にたどり着こうという心を持って取り組む学生を1人でも増やすのは、今日本で音楽に携わる自分の使命なのかもしれない。

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